三位一体(3)

前回話したように,この世界は三位一体的に捉えることが出来る。その世界と合わせ鏡のように出来ているのがコトバのシステムであることを考えると,コトバのシステム自体が三位一体的なものを自己言及的に反映しているのではないか?

 また,同時に,語源全体の構造を捉えるときのもう1つのキーワードは全体論的ということだろう。この世界の現象が決定論と偶然性が混じり合ったものだと考えるので,要素還元主義的であったとするなら決定論的であり矛盾するからだ。あるいは,自己言及的なルールから発生するのは増殖だけでなく,いずれ紹介するがフラクタル図形というものもある。これは,全体の形がそのどの一部分の形とも全く相似であって,その複雑さが図形の一部をどんなに拡大しても変わらない。つまり,要素還元主義的には捉えられない。

以上より,語源全体の構造は,「父=神」と「子」と「聖霊」のパートからなると考えられる上に,部分と全体を同時に捉えないと見えにくいフラクタル的構造にもなっていると考えている。このことを徹底的に追究することが,このブログの最大のテーマでもある。

三位一体(2)

前回の「合わせ鏡」の例から何となく分かるのは,自己言及的ルール(システム)には増殖(これを差異の反復と呼ぶ人もいる)が発生するということだろう。実は,自己言及的基本ルールを「父=神」,増殖を「聖霊」と見ることが出来て,三位一体の哲学に自然に結びついて来ると私は考えている。そして,過剰な増殖はそのシステムの崩壊を招きかねないが(ガン細胞のように),そこに偶然性を本質的に産み出す原動力があるのではないだろうか?それによって,決定論と偶然性が混じり合った現実の現象が受肉する。それが,「子」の誕生となり,三位一体が完成する。

三位一体(1)

前回は,現実の物理現象の背後には「自己言及的」なルール(システム)があるのではないかと話した。しかし,これは現実の世界では在り得ないことでもあり,そのためこの基本ルール(システム)は観測不能ということに必然的になると思う。あるいはこの世界のどこかに潜在していると言ってもいいかも知れない。

 自己言及的なものに似たシステムの簡単な例として,「合わせ鏡」を思い出されるといいだろう。今,2枚の鏡の間にあなたが立っているとする。まず,右の鏡にあなたの姿が映る。これを左の鏡から見ると,あなたの後ろにもう1人のあなたが映っている。それが左の鏡に映る。すると,それを右の鏡から見ると,あなたの後ろにあなたがいて,その後ろにまたあなたが映っているのが見える。それが今度は右の鏡に映る。これを繰り返されることで,あなたが無限に増殖してしまう。

 1つ注意しておくべきは,この「合わせ鏡」の例は本当の意味の自己言及的ルール(システム)ではないということだ。というのは,あなた自身は最初から真ん中にいるからだ。つまり,一番最初の原因自体ははっきりしている。現実の物理現象の背後に潜む自己言及的ルール(システム)は,何が原因で何が結果か明白には区別出来ず(それ故,非常に対称性が高い),鏡と鏡のあいだに勝手に何か浮かんで来るようなイメージかもしれない。

非対称な時間の流れと偶然性(2)

前回に引き続き,現実の物理現象が何故,決定論と偶然性(決定論とは真反対)が入り混じったようなことになっているのだろうか?これについて考察したい。

この辺りは,哲学的というか,禅問答のようでもあり,いい加減なことを言うなと思われる方もいらっしゃるだろうと思う。ですが,せっかくここまでお読みになられたのなら,もう少々お付き合い願いたい。

 物理現象が決定論的であるならば,その背後には何らかの因果律があることになる。原因から結果への一方向的作用である。ところが,どうも現実の物理現象には偶然性も入り込んでいるらしいので,原因から結果への一方向的作用だけでなく,結果が原因にも影響を与えるような(逆流するような)作用も同時に,現象の背後に潜んでいると考えられる。これを例えると,太極図のようなイメージなのではないかと思っている。あるいは,物理現象の背後にある原理は,自己言及的と言い換えてもいいだろう。

非対称な時間の流れと偶然性 (1)

前回取り上げた宇宙のメカニズムは,時間とは何か?確率性(偶然性)とは何か?ということと関わって来る。物質の世界では,この宇宙はビッグバンから始まり,それからしばらくしてクォークレプトン(とその反粒子など)が生まれる。宇宙全体が膨張し冷えて行くにつれて,それらが集まって陽子や中性子などの様々な素粒子が生まれて来る。そう言う歴史性(時間性)が伴う。言葉の方でも,原始的状態の意味群とでも呼ぶべきものから,次第にいろいろ合体や変化・増殖を繰り返し,様々な現代語へと姿を変えて行く。ここでも,歴史性が伴う。ビッグバン直後には非常に対称性の高い状態であった。そこには,クォークレプトンの区別さえなく(これらはある意味で対称な存在だった),生成消滅を繰り返していた。それが,時間の進行に伴い(といっても実は非常に短い時間の間にめまぐるしく変化する)対称性が低くなっている。そもそも時間と言うもの自体が,過去から未来へと一方通行であり(逆流はしない),非対称な存在である。これを「時間の矢」と呼ぶ人もいる。非対称な時間が流れるということは,現実の物理現象が単なる決定論的(determinism)なものではなく,偶然性(randomness)も混ざり合ったようなものだからだろうという説があり,私もそう考えている。理系の人には,ニュートン力学だとか,ハミルトン力学系だとか,初期条件が決まればその後の運動の様子は一意的に決定されるという世界観はなじみがあるだろう。単純な例で言えば,ボールを斜めに投げ上げるとき,その瞬間の位置と速度さえ決めれば,何秒後にボールがどこにあるかは一意的に決まってしまうということだ。もし,現実の物理現象が完全に決定論的であったなら,結果も一意に決まってしまっているのだから,時間がわざわざ流れてみる必要もないのではないか?むしろ,現実の物理現象においては,本質的に偶然性が発生するので(観測誤差というものとは全く違うことに注意),実際に時間が流れてみないことにはどうなるか分からない。これが,時間が非対称的に流れるということなのではないか?

また,ニュートン力学だとか,ハミルトン力学系だとかは,時間反転に関して対称的であって(ビデオを逆回しにするような運動があり得る方程式系ということ),この意味でも決定論的世界観は現実の現象にはそもそも合っていないかもしれない。というのは,タバコの煙が拡散する現象は見たことがあっても,拡散した煙が逆流しながらタバコに戻って来る様子を目にした人はいないだろう?

印欧祖語(3)

前回書いたように,語源の分析を押し進めていくと,印欧祖語まで遡れるわけだが,そこまで行くとその存在性がはっきりとは考古学的・文献学的に確認出来ない(直接観測が難しい)。そして,そのことをむしろ面白いと言った。何故なら,全体論と要素還元主義(3)の中で触れたクォークの状況と,印欧祖語のこの状況はそっくりだからである。モノを部分に分解,分解して行くとどこかの階層から,技術的にではなく,原理的に観測不能なものに近付いて行ってしまう。言い換えると,いずれもしそれが観測出来るようになったならば,それらの要素は究極的要素ではなかったと言うことになる。そのようなメカニズムが,この宇宙にはあるのではないか?この辺りのことをもう少し突っ込んで考えようとすると,全体論と要素還元主義との相克や,物理的な話に関係して来そうなのだ。次回この辺りをもう少し触れておく。

印欧祖語(2)

ジョーンズは,1786 年にカルカッタ王立アジア協会において,印欧祖語のアイディアを講演したのだが,その後,それ以上の研究をしたような形跡はない。 その代わり,ドイツ人言語学者フランツ・ボップ(1791-1867)などの後続の研究者たちによって,比較言語学的な厳密な学問的手法が確立され,印欧祖語の推定(これを“再建(reconstruction)”と呼ぶ)作業が進む。様々な印欧語族の類似する単語たちを比較することで再建された。そして,1870年代末までには印欧祖語の概要は完成。しかし,一般的に受け入れられる様になったのは漸く20世紀になってからであった。と言いうのも,印欧祖語が使われていたのではないかと推定される時代には勿論,まだ文字というものは存在せず,祖語が実際にどのような言語であったかを,遺跡のような証拠から見付けることは出来そうにないからである。いつ頃,どこで話されていたかも明確にはなっていない。考古学的には,紀元前3000年~5000年前,黒海西岸あたりの地域とする説もあるそうだが,はっきりはしない。祖語は空想の産物ではないが,ある種の虚構ではあり,そのため,ここでは復元ではなく再建と言うことにする。つまり,ラテン語ギリシャ語とは違い,印欧祖語はある特定の時期に特定の地域で用いられていた現実の言語にはまだなっていない。その存在性は微妙なのである。しかし,私はこのことを否定的には捉えていない。むしろ面白いと思っているのだ。